Bai Qi白起(BC?-BC257)
秦の将軍。始皇帝の曽祖父にあたる昭襄王に仕え、趙・魏・楚等を打ち破って秦の興隆に大いに貢献した。当時は珍しくなかったのだが、原則捕虜は取らず降兵は鏖殺している。
「武安君、秦のために戦いて勝ち、攻めてとるところのもの七十余城。南はエン・郢・漢中を定め、北は趙括の軍を禽にす。周・召・呂望の功といえどもこれよりも益さず」『史記』より、武安君白起について
Han Xin韓信(BC?-BC196)
前漢創設期の武将。中原を代表する英雄の一人である。劉邦による大抜擢に応えて諸国を次々に降し、遂には垓下で項籍を打ち破って漢の覇権を決定的なものとした。
「韓信は国士無双であり、他の雑多な将軍とは違う」漢の名臣蕭何による評
Vo Nguyen Giapヴォー・グエン・ザップ(1911-)
ベトナムの軍人、政治家。正規の軍事訓練は受けていなかったが、フランス軍を叩き出して独立への道を作り、更に超大国アメリカを泥沼に引きずり込んで消耗させ、ベトナム統一をもたらした。
「ゲリラ戦を維持し、発展させていくためには、必然的に機動戦に行き着かねばならない」『人民の戦争・人民の軍隊』
Abu Muslimアブー・ムスリム(700?-755)
アッバース革命の指導者。通称「ホラーサーンの猛虎」。ダーイー、即ち秘密教宣員として挙兵の準備を整え、いざ挙兵してからは瞬く間にアッバース革命を成立させた。本人は前線には出なかった事でも知られる。
「自分を生かしておけばあなたの敵を倒すだろう」「お前以上の敵がどこにいるものか」マンスールに誅殺される寸前の問答
Kemal Ataturkケマル・アタチュルク(1881-1938)
オスマン帝国の軍人を経て、トルコ共和国の初代大頭領となる。軍人時代にはガリポリで英軍の前進を食い止め、革命政府の首魁となってからは希軍を撃退するなど将軍としても優秀であった。
「全軍へ告ぐ。諸君の最初の目標は地中海だ、前進せよ」
Ahmad Shah Massoudアフマド・シャー・マスード(1953-2001)
アフガニスタンの政治家、軍事指導者。アフガン戦争において万単位で侵入してくるソ連軍を何度も何度も追い返した局地戦の泰斗であり、「パンジシールの獅子」の異名を持つ。
「私達が戦いを止めればテロリズムは世界に広がっていくだろう」
計10人
Alexander Nevskyアレクサンドル・ネフスキー(1220-1263)
ノブゴロド公であり、後にウラジーミル大公。ドイツ騎士団とスウェーデンの侵攻を跳ね返してロシアと正教を守った事で、英雄、聖人として称えられている。モンゴルへの臣従を貫く等時世を読む力もあった。
「…彼の背は誰よりも高く、声はラッパのようによく響き、顔は古のファラオが自らの後継者に据えんと欲したあのヨセフのようであった」『第二プスコフ年代記』
Jan Zizkaヤン・ジシュカ(1374-1424)
ボヘミア出身の傭兵で、フス派の総大将。馬車防壁と鉄砲斉射を組み合わせた新戦術を農民達に叩き込み、貴族によって構成される重騎兵団を木っ端微塵に粉砕。戦争の様式そのものを根本的に変えてしまった不世出の天才である。
「フス派は神か、あるいは悪魔の力を得ているに違いない。人間が勝てる相手ではない。彼らは無敵なのだから」
Albrecht von Wallensteinアルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン(1583-1634)
ボヘミア生まれの傭兵。神聖ローマ皇帝の私兵として各地を駆け巡り、プロテスタント諸国に連戦連勝を重ねる。リュッツェンでは敗北しながらもグスタフ・アドルフを討ち取ってみせた。
「あの人は軍人の国を作ろうとしたのだ。そして世界に火をつけ、世界を燃やして、あらゆることを大胆にやろうとした」シラー著『ヴァレンシュタイン』より
Stefan Czarnieckiステファン・チャルニエフスキ(1599-1665) ※ 日本語記事は無し。代わりに大洪水時代の項を記す。
ポーランド=リトアニア連合の軍人。内憂外患によってズタズタにされたポーランド軍を草の根から立て直し、スウェーデン軍を追い出してポーランドの王権を復活させた。
「チャルニィエツキがポズナンに行ったように スウェーデンとの戦いの後 国を救うため 海を渡って戻ってきた」ポーランド国歌より
Alexander Suvorovアレクサンドル・スヴォーロフ(1729-1800)
ロシア帝国軍人、貴族。機動力を活かした速攻を得意とし、ポーランド分割、露土戦争、フランス革命戦争等で功績を上げる。世界史上でも稀な文字通りの「不敗」将軍でもある。
「戦争において金銭は尊い。人命はより尊い。それよりもなお時間は尊い」
Tadeusz Kosciuszkoタデウシュ・コシチュシュコ(1746-1817)
ベラルーシ系のポーランド貴族、軍人。ジョージ・ワシントンの副官としてアメリカ独立戦争に参戦し、その後第二次ポーランド分割に抗い叛乱を起こす。
「ポーランド人よ! お前は、このヨーロッパで不運にも自分が耐えしのんでいる苦痛は、明らかに、告訴に値するものであるとみなしているはずである」『民族解放と国家再建によせて』
Jozef Pilsudskiユゼフ・ピウスツキ(1867-1935)
ポーランド軍元帥、首相。ポーランド独立、軍創設、そしてかのトゥハチェフスキー率いるソ連軍に対する勝利をもたらしたポーランドの英雄である。ヒトラーの危険性も見抜いていたという。
「この2つの条約がある状態というのは、ポーランドが2つの椅子に両脚を乗せているようなものである。こんな状態は長くは続かないだろう。いまやどちらの椅子からひっくり返るか、そしてそれはいつなのか、ということだ」
Carl Gustaf Mannerheimカール・グスタフ・マンネルヘイム(1867-1951)
フィンランド陸軍元帥、軍最高司令官、後に大統領。横暴なるソ連の侵略に対して果敢に抵抗し、フィンランドの独立を守り抜く事に成功する。ちなみに探検家としても成果を残していたりする。
「自国すら守れない民族を他国が助けてくれるはずがない」
Marcus Agrippaマルクス・アグリッパ(BC63-BC12)
古代ローマの軍人、政治家。軍才のなかったアウグストゥスに代わって彼の軍を率い、ほぼ全ての戦で決定的な役割を演じた。アウグストゥスの業績は彼がいなければ成立し得なかっただろう。
「オクタヴィアヌスの後見人にアグリッパを指名する」 ユリウス・カエサル
Richard IリチャードⅠ世(1109-1185)
獅子心王と呼ばれたイングランド王。その生涯の殆どを闘争に費やし、第三回十字軍で武名を上げたと思えばノルマンディーでは失地の大多数を回復してみせた。
「プランタジネット家の人々は悪魔の子であり、その獰猛性と喧嘩好きは生まれ持っての性癖である」
William Wallaceウィリアム・ウォレス(1272?-1305)
スコットランドの勇者。スターリング・ブリッジの戦いでイングランド軍を破り、スコットランド人の勇気を大いに高める。彼自身は処刑されるものの、その志はロバートⅠ世率いるスコットランド人に受け継がれた。
「スコットランド、我々のもっとも大きな誇り、それは決して倒れないことではない。倒れるたびに立ち上がる、それが誇りだ」──スコットランドの詩
Robert IロバートⅠ世(1274-1329)
ブルース朝を創始したスコットランド国王。一度は領土の全てを失うものの粘り強いゲリラ戦を展開し、遂にはバノックバーンで三倍の敵を打ち破り、イングランドの野望を挫いた。
「我々が戦うのは、栄光や名誉のためでも、富のためでもなく、ただ自由のためなのだ。この独立のために、高潔な我々は決してあきらめず、そしていかなる犠牲をも怖れない」「アーブローズ宣言」
Edward,the Black Princeエドワード黒太子(1330-1376)
イングランド王子。当時最新の兵科であった長弓兵を率い、数に勝っていた筈のフランス軍を一方的に蹂躙。特にポワティエではフランス国王ジャンⅡ世らを捕虜にし、その身代金でフランスの財政をも吹き飛ばした*9。
「自分の好きな時に大軍を率いて出頭する」
Bertrand du Guesclinベルトラン・デュ・ゲクラン(1320-1380)
フランスの軍人。賢明王シャルルⅤ世に見出され、後の傭兵団を彷彿とさせる合理的戦術によって百年戦争で活躍。イギリスに奪われたフランス領の大半を奪い返した。
「デュ・ゲクランの地図の彼方に、王太子シャルルは無限の空間をみつけていた。-これはルネサンス(再生)だ」 佐藤賢一著、『双頭の鷲』より
Gonzalo de Cordobaゴンサロ・デ・コルドバ(1453-1515)
「エル・グラン・カピターン」の異名を持つスペインの将軍。後にテルシオとなるコロネリアを組織し、更に塹壕戦を開発する等徹底的な軍政改革を行い、遂には火力を以てフランス重装騎兵を殲滅するに至る。
「良い知らせだ。これこそ勝利の光である」
Francis Drakeフランシス・ドレーク(1543-1596)
イギリスの海賊兼海軍提督。イングランドの歳入を上回る額の財宝を略奪するだけに飽き足らず、アルマダを海に沈めさえしてしまった、スペインにとっての「エル・ドラコ」である。
「海と空気は万人が共同に使うべきもの。いかなる君主も、広い大洋を自由に航行するを妨害できない」エリザベス1世
Maurice of Nassauマウリッツ(1567-1625)
オラニエ公ウィレムⅠ世の次男、オランダ総督。軍隊の徹底的な合理化、マニュアル化を進め、更に三兵戦術の基礎を確立する等、ヨーロッパにおける「軍事革命」を起こした人物。
「2プラス2は4である」
Vicomte de Turenneテュレンヌ子爵(1611-1675)
フランスの軍人。ルイ14世の配下として三十年戦争とネーデルランド継承戦争に参戦し、その緻密な戦略を以てフランスに勝利をもたらしている。また、皮肉な事に↓の人物の師ともなった。
「2、3の包囲戦と多くの戦闘」
John Churchillジョン・チャーチル(1650-1722)
イギリスのジェントリ、軍人。尋常ではない程の機動力を自慢とし、スペイン継承戦争においてフランス軍を何度も打ち破ってルイの覇権を突き崩した。ちなみにウィンストン・チャーチルのご先祖様でもある。
「早期かつ優れた諜報活動無しに戦争を遂行する事は出来ない」
Arthur Wellesleyウェリントン公アーサー・ウェルズリー(1769-1852)
イギリスの将軍、政治家。「鉄の公爵」の異名を持つ。ナポレオンによるイベリア半島への侵入を食い止め、遂にはワーテルローでナポレオンの野望を完全に打ち砕いた。
「恐れを知って、しかもそれを恐れざる者こそ、真の大勇者である」
Giuseppe Garibaldiジュゼッペ・ガリバルディ(1807-1882)
ニース生まれの軍事家。赤シャツ隊を率いて両シチリア王国を滅ぼし、これをサルディーニャに献上する事でイタリア統一に大きく貢献した。また祖国同様に自由も愛する人物で、南米や第三共和制下のフランスでも活躍している。
「我々が何処に退こうとも、戦う限りローマは存続する」
Helmuth von Moltkeヘルムート・フォン・モルトケ(1800-1891)
プロイセンの貴族、軍人、軍事学者。その卓越した戦略を以て普丁、普墺、普仏戦争に勝利し、ドイツ統一の原動力となった。鉄道と電信の活用によって軍の機動と命令伝達を迅速化し、中央集権組織の原型を構築した人物でもある。
「計画することがすべてだ、計画書は無意味だ」
Philippe Ptainフィリップ・ペタン(1856-1951)
フランスの軍人、政治家。軍人としては第一次世界大戦において活躍しており、特にヴェルダンにおけるドイツ軍の攻勢を頓挫させた事で「ヴェルダンの英雄」と呼ばれていた。
「私の信頼するものは愛と歩兵だ」
Erich von Mansteinエーリッヒ・フォン・マンシュタイン(1887-1973)
ドイツ陸軍元帥。「マンシュタイン計画」によってフランスを蹴散らした事で国際的な名声を勝ち取り、以後も「バックハンドブロウ」で赤軍を黙らせる等東部戦線で活躍した。
「敵地における機甲部隊の安全は、移動することにある」
計24人
William Halseyウィリアム・ハルゼー(1882-1959)
アメリカ海軍提督。「猛牛」と呼ばれる程の勇猛な指揮に定評があり、いくつかのポカもやらかしたがそれ以上の戦果を上げて太平洋戦線の趨勢を決めた。
「海軍は理想的な軍隊だ 船に乗って撃ち合っている限り、市民に迷惑をかけることがない」
Raymond A.Spruanceレイモンド・スプルーアンス(1886-1969)
アメリカ海軍提督。合理的且つ冷静な指揮で知られる。ハルゼーの代役としてミッドウェー海戦の指揮を取り、日本軍に対して決定的な勝利を収めた。以後もニミッツの参謀長となり、多くの戦果を上げている。
「諸君、私は諸君の一人ひとりについて、いささかの不安の念も持っていないということを、先ずはっきりさせておきたい。もし一人でもそうでない人物がいたら、ビル・ハルゼーが君達をこのままにしておくはずがないからだ」
Henry H.Arnoldヘンリー・アーノルド(1886-1950)
アメリカ陸軍、空軍元帥。第二次大戦への参戦に備えて航空隊の増強に力を注ぎ、後の空軍創設に大きく貢献した。なお米空軍元帥に叙されたのは現在に至るまで彼一人のみである。
「今日では、ある国が他の国を打ち負かすことはできない。そうした考え方は、広島とともに死滅した」
Che Guevaraチェ・ゲバラ(1928-1967)
アルゼンチン生まれの革命家。並ぶ者無きカリスマとして反乱軍の精神的支柱となり、遂にはキューバ革命を現実のものとした。その姿は世界一「格好いい」*13共産主義者として、今なお尊敬を集めている。
「ここにいるのは英雄ではない。ただ一人の男だ。撃て!臆病者め!」
計10人
Amr ibn al-Asアムル・イブン・アル=アース(583-664)
イスラーム草莽期の将軍、政治家。パレスチナとエジプトの征服者であり、特にエジプトではたった四千騎で万単位の東ローマ帝国軍を打ち破っている。今日のカイロとなるフスタートの生みの親でもある。
「汝にエジプトから引き返すように命令する書簡が、エジプトのどこかに侵入する前にとどいたときは引き返せ。しかし汝が余の書簡を受け取る前にその地に踏み込んでいたときは、前進してアッラーの援けを乞え」 ウマル・イブン・ハッターブ
Go of Balhae大祚栄(?-719)
渤海初代国王。父である乞乞仲象と共に唐からの独立を目論み、これを達成。その後は唐、突厥、契丹、新羅、日本らと交易を結び、緩衝国家としての地位を確立した。
「大祚栄という者有り。驍勇にして騎射を善くす。高麗、靺鞨之衆にして、稍稍に之帰す。建國に及び、自らを震國王と号す」 『大日本史』「東國通鑑」からの引用
Abd ar-Rahman Iアブド・アッラフマーン1世(731-788)
後ウマイヤ朝の創設者。「クライシュの鷹」と呼ばれる将星であり、キリスト教徒からイベリア半島を奪い、次いでシャルルマーニュ率いるフランク王国を打ち破った。
「クライシュの鷹と呼ぶべきは、まことにアブド・アッラフマーンのことであろう。ただひとりアジアとアフリカをめぐり、軍兵もなしに海の彼方の未知の国に押しわたるという大胆さ。己が機略と堅忍より他は頼るものとてなきに、よく傲岸な敵を怯ませ、叛徒を殺し、異教徒の襲撃を退けて国境を平らかにする。大帝国を建設し、群雄割拠の国土を統一する。これこそ彼以前にいまだ何人もなし得なかったところではないか」 アッバース朝カリフ、アル・マンスールの賛辞
Johannes Kourkouasヨハネス・クルクアス(900?-946?)※ 日本語記事無し。代わりに「ロマノス1世レカペノス」を記載
ビザンツ帝国の将軍。マラティヤの領有を確定させるなど東方のイスラム勢力に連戦連勝を重ね、ベリサリウスの再来と謳われた。
「…ヨハネスは戦争において並ぶ者無き存在となり、無数の戦利品を積み上げ、ローマ帝国の領土を広げ、ハガルの裔が都市を奪い去ったのである」 テオファネス・コンテニュアスの年代記より
Otto IオットーⅠ世(912-973)
東フランク王国国王、後に神聖ローマ帝国初代皇帝。将軍としては特にレヒフェルトでマジャール人に大勝し、その脅威を完全に断ち切った事で知られる。
「オットーはアウグスブルグ市の領域にあった彼の野営地に急行し、死病に伏せっていたバイエルン公ハインリヒ1世と合流、更にコンラート赤毛公に率いられたフランク騎士の力も得た。この予期せぬコンラートの増援によって戦士達は奮い立ち、すぐにでも敵を叩かんと気勢を上げた」 コルベのウィドゥキントによる年代記
Muhammad Ibn Abi Aamirムハンマド・イブン・アビー・アーミル(938-1002) ※ 日本語記事無し。代わりに「レコンキスタ」を記載
後ウマイヤ朝の宰相、侍従、将軍。幼年の王を擁立して国政を掌握した上で、ベルベル人の私兵を編成して北方に侵攻。キリスト教勢力の尽くを臣従させ「アル・マンスール(勝利者)」と称えられ、また恐れられた*16。
「しかし遂に、神の慈悲は瓦礫の上に示され、キリスト教徒に頭を上げる事を許された。それから十二年後にマンスールは偉大なる都市メディナの手にかかり、彼の地に居座る悪魔によって地獄に引きずり込まれた」 当時は怖くて語れなかった『沈黙の歴史』
Ram Khamhaeng the Greatラームカムヘーン(1239-1317)
スコータイ朝第三代国王。巧みな外交手腕で北方の安全を強化しつつ、マレー半島とカンボジアを征服。温情的な父権統治*18でも知られ、タイ文字の作者ともされる。
「水に魚あり、田に稲あり」『ラームカムヘーン大王碑文』
Osman Iオスマン1世(1258-1326)
オスマン帝国初代皇帝。ルーム・セルジューク王朝からの独立を果たし、小アジアにオスマン朝を打ち立てる。その後も東ローマ帝国等と戦い領土を広げ、大帝国の基盤を作り上げた。
「息子よ! 他のあらゆる義務を遂行する前に、神の問題を解決するのだ。神の教訓は強固な国を造り上げる。…学者、高潔な者、芸術家、文学者は国家創立の原動力となる。厚意と名誉を以て彼らをもてなせ。…そなたの民を敵の侵略と非道から守るのだ。誰に対しても不公平で道理の通らぬ真似をしてはならぬ。民を満足させ、彼らの望み全てを助けよ」息子オルハンへの教訓より
Yi Seong-gye李成桂(1335-1408)
高麗の武官であり、李氏朝鮮王朝の創設者。紅巾軍や元の将である納哈出を撃退する事で武名を上げ、最終的には落ち目の高麗と元を見限り武力で李氏王朝を樹立した。
「平壌城では火が燃えさかり、安州城の外では煙が立ちこめている。平壌と安州の間を往復する李将軍よ、願わくは蒼生を救いたまえ」 李成桂の開京入城を称える歌
Yao Guangxiao姚広孝(1335-1418) ※ 英文記事無し。代わりに中国語記事を掲載
明代の僧、政治家。後の永楽帝となる朱棣の軍師を務め、蒙古討伐や靖難の変における作戦立案に深く関わる。謀臣の典型と見做されるが文人、僧としても一流であった。
「殿下聞こしめさずや、飛龍天に在れば、従うに風雨を以ってすと申す、瓦落ちて砕けぬ、これ黄屋に易るべきのみ」
Hunyadi Janosフニャディ・ヤーノシュ(1409-1456)
トランシルヴァニア総督。ポーランドやヴェネツィアと同盟を結び、東ローマ帝国を滅ぼし勢いに乗るオスマン帝国の侵攻を阻止。ハンガリー王国中興の基礎を確立した。
「護り抜いてくれ、友よ、キリスト教の世界とハンガリーの王国を、あらゆる敵から…。互いに争いあってはならぬ。諸君らが内乱で力を失えば、我らの国を納める墓穴を掘るだけではなく、諸君ら自身の運命を閉ざす事になるのだから」 ベオグラードでの遺言
Giovanni dalle Bande Nere黒隊長ジョヴァンニ(1498-1526)
イタリアの傭兵隊長。メディチ家の傍流であり、教皇レオ10世の元で軍人としての教育を受け、弱冠20歳にして教皇軍の指揮官となる。その疾風迅雷のような戦いぶりから「大魔王」とも呼ばれていた。
「おまえは戦争についてえらそうな本を書いているが、ひとつ実践してみてはどうだ」 マキャヴェッリへの言
Yi Sun-sin李舜臣(1545-1598)
朝鮮王朝の将軍。質量共に劣り士気すらも無い朝鮮水軍を率い、焦土戦術を含むありとあらゆる戦術を尽くして果敢に日本軍に抵抗。最終的には戦死するものの今日において英雄と称えられている。
「死を覚悟して闘えば生きるだろう、生きるために闘えば死ぬだろう」
Gerhard von Scharnhorstゲルハルト・フォン・シャルンホルスト(1755-1813)
プロイセンの軍人。史上初めて参謀本部を創設し、平民に士官学校の門を開くなどプロイセン軍の刷新に貢献。諸国民解放戦争において戦死するが、彼の作戦がナポレオンを打ち破っている。
「我が軍の士官は指揮のなんたるかを知らなかった。なんらかの働きをしたものはあまりにも少なかった。多数の要塞は理由もなく降伏して高級将校たちの恥ずべき実態をさらけ出した」 イエナ・アウエルシュタットへの述懐
Carl von Clausewitzカール・フォン・クラウゼヴィッツ(1780-1831)
プロイセンの軍人、軍事学者。軍人としての功績には目立つものは無いが『戦争論』によって軍事科学史に不滅の名声を築いた。なおシャルンホルストの弟子であり大モルトケの師でもある。
「戦争は政治におけるとは異なる手段をもってする政治の継続にほかならない」 『戦争論』
Leon Trotskyレフ・トロツキー(1879-1940)
ウクライナ出身の革命家、思想家。単なる一揆でしかなかった赤軍を厳しい規律でまとめ上げ、内外の障害を排除してロシア革命を成立せしめた。悪名高い政治将校の生みの親でもある。
「最もすぐれた兵士とは、赤軍においては断じて、最も従順で不平を言わない兵士のことを指すのではない。逆に、最もすぐれた兵士とは、何事においても、他の兵士よりも鋭く、注意深く、批判的な兵士だろう」
Karl Donitzカール・デーニッツ(1891-1980)
ドイツ海軍元帥。群狼作戦を編み出した潜水艦戦術のスペシャリストであり、一時は実質Uボートだけで大西洋を制圧してみせた。ヒトラー死後は降伏交渉の総責任者も務めている。
「海戦はUボートの戦いだ。あらゆるものが、この主目的に従属する」
Josip Broz Titoヨシップ・ブロズ・チトー(1892-1980)
ユーゴスラビアのパルチザン指導者、後に大統領。ネレトバ等で示された巧みなゲリラ戦術によって独力でユーゴ解放を成し遂げる。政治家としての能力も傑出したものであった。
「私の治める国には2種類の文字3種類の言語4つの宗教があり6つの共和国の中に5つの国籍と8つの少数民族が存在する。さらに我が国は7カ国と国境を接している」
Kim Suk-won金錫源(1893-1978)
大韓民国、及び大日本帝国軍人。自ら前線に立つ勇猛果敢な猛将であり、日中戦争では抜群の働きで民族の誇りを見せつけ、朝鮮戦争でも他国籍軍による反撃を引き寄せ韓国を護った。
「日本軍を破った男が日本軍を指揮するのか。よろしい。日本軍が味方にまわればどれほどたのもしいか、存分にみせつけてやりましょう」 マッカーサーの司令官着任に際し
Bai Chongxi白崇禧(1893-1966)
中華民国の将軍であり、広西軍閥の長。北伐においては北京への一番乗りを果たし、抗日戦線では総力戦を指揮して日本軍を撃退、更に国共内戦で唯一の勝利を上げる等、「小諸葛亮」の渾名に恥じぬ名将である。
「敵を撃退し中国から追い出す、これが徹底抗戦の意味です」