Last-modified: 2011-10-14 01:26:23
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- Herbert Yardley ハーバート・ヤードリー(1889-1958)
アメリカ合衆国の暗号学者。「ブラック・チェンバー」の設立者であり、その長。日本の外交暗号を解読し、ワシントン会議に寄与した。
「米国の暗号解読の機密室は、1921年のワシントンでの海軍軍縮会議中の日本側の暗号電報、全権本部への秘密訓電も含めて、およそ5000通を解読して合衆国政府へ送っていた」
- Richard Sorge リヒャルト・ゾルゲ(1895-1944)
ソビエト連邦のスパイ。特にドイツのソ連侵攻作戦を読んだ*1事、また日本が対ソ戦争に消極的であるとの情報を掴んだ(結果、ソ連は精鋭を対日戦線から対独戦線に回す事が出来た)事で知られる。
「コミュニズムは偉大で素晴らしい」
- Leopold Trepper レオポルド・トレッペル(1904-1982)
ソビエト連邦のスパイ。特に対独工作に従事する「赤いオーケストラ」の一人であり、主にフランス共産党のネットワークを使って暗躍する。
「全ての国の党活動家がいた宿舎ではだれも朝の3時まで寝なかった。…ちょうど3時に自動車のライトが見え始めた。…我々は窓の傍で、どこにその車が止まったか確かめようと待った」
- Reinhard Gehlen ラインハルト・ゲーレン(1902-1979)
ドイツ軍人、官僚。戦前戦後を通してソ連への諜報活動に従事し、特に戦後はアメリカの協力を得てゲーレン機関を設立。西側諸国の耳目となって東側諸国の情報を探り続けた。
「情報機関の組織は、部外者に対してはできるだけ不透明で複雑でなければならない。しかし、各自が自分に何を期待されているか知っていなければならない」 『回顧録』より
- Simon Wiesenthal サイモン・ヴィーゼンタール(1908-2005)
オーストリアのユダヤ教徒。いわゆるナチ・ハンターで、国外逃亡したナチス将校を多数捕縛する。また、日本ではマルコ・ポーロ廃刊事件によって彼の名が知られている。
「あなたがドイツ人を憎むとき、忘れていることがあります。ドイツ人と食卓を囲んで楽しかったこと。いっしょに語って笑いあったこと。お互いが気遣い、助け合ったこと。ドイツ人を憎んだとき、あなたはこれらの思い出を忘れすぎています」
- Wolfgang Lotz ウォルフガング・ロッツ(1921-1993)
イスラエルの軍人、スパイ。モサドの諜報員として元ナチス将校を騙り、主にエジプトに対する諜報、工作活動を行う。モサドの経費で大量のシャンパンを消費したので、「シャンパン・スパイ」とも呼ばれる。
「ぼくがきみに妻になってくれとと頼むときに、こういう危険があるということを知った上で、十分慎重に返事を考えてもらいたいからだ」
- Markus Wolf マルクス・ヴォルフ(1923-2006)
ドイツ民主共和国高級官僚。渾名は「ミーシャ」。東ドイツの諜報機関「シュタージ」における対外諜報部門の長を30年以上に渡って務め、西ドイツの防諜機関を完全に翻弄した。
「何も隠れていたわけじゃない。本当言うと単に西ドイツの連中が馬鹿だった。何年も公的式典には参加していた。真ん中じゃなく端の方で。連中そっちは探さなかったんだ」
- Gunter Guillaume ギュンター・ギヨーム(1927-1995)
ドイツ民主共和国軍人、スパイ。西ドイツ首相ヴィリー・ブラントの秘書にまで登り詰める事に成功し、私生活を含めて彼に関わる情報を全て筒抜けにした。
「私はドイツ民主共和国市民であり将校である。敬意を払いたまえ!」
計8人
- Xi Shi 西施(生没年不詳。BC5C頃?)
春秋時代の人物。いわゆる中国四大美女の一人で、勾践の命で呉に送られ、夫差を堕落させて呉滅亡の原因を作ったとされる。なお、呉が滅んだ後に彼女がどうなったかははっきりしていない。
「西施には胸が痛む持病があったという。ある日、その発作が起きた。彼女が胸元を押さえ、顰にしわを寄せた姿にはなんともなまめかしく、か弱い女性の美しさがにじみ出ていた。彼女が里から歩いて来るその様に、里の人たちは皆、目が釘付けになった」 『荘子』「天運」
- Hassan-i Sabbah ハサン・サッバーフ(?-1124)
イスラム教シーア派の一派ニザール派の開祖。通称「山の長老」。要人の暗殺によってセルジューク朝に抵抗した事から、後に「暗殺教団」の教祖と呼ばれるようになった。
「マホメットは楽園について、そこには葡萄酒や牛乳、蜂蜜、水の流れる暗渠(あんきょ)がはしっており、入園者を喜ばすために、多くの美女がいる、とのべているが、山の老人はこれをもとにして庭園をつくったのだが、この地方のイスラム教徒はこれこそ楽園だと信じこんでいた」『東方見聞録』より、ハサンの居城に関する記述
- Rozsa Sandor ロージャ・シャーンドル(1813-1878)
ハンガリーの盗賊。「ベチャール」、いわゆる義賊であり、貧者からの強盗は行わなかったとされる。義勇軍を率いてハンガリー革命に参加、活躍した事もある。
「年齢四二歳-四三歳。中肉中背。他人の前ではいつも下を向いている。目は黒く、なかば閉じていて、おとなしそうにまばたきする。ちょうど、鼠を追いかける猫のようである」 当時の手配書
計3人
合計11人
追加したい方がいればここにどうぞ †
- Marcus Brutus マルクス・ブルトゥス(BC85-BC42)
共和制ローマ末期の政治家。小カトーの影響を受け、共和制の敵としてユリウス・カエサルを暗殺。その後第二次三頭政治に抗うも敗れて自決。*2
「不運な高潔な人よ、私の名前は本当の人として崇拝されていたのに、今は運命の奴隷になってしまった」カッシウス・ディオ『ローマ史』における遺言
- Qin Hui 秦檜(1090-1155)
南宋の宰相。無謀な抗戦を主張する軍閥を離間策で解体し、金との和平締結に成功。その条件は屈辱的であったものの南宗は150年に渡って命脈を存えた…とも言える。
「虎を捉うるは易く、縦つのは難し」 妻の王氏による言
- La Malinche マリンチェ(1496?或いは1505?-1529?)
アステカの没落貴族の娘。コルテスに献上された後に彼を籠絡し、その妾兼参謀となる。ナワトル語、マヤ語(とスペイン語)をこなし、通訳としても貢献した*3。
「私はメヒコの女でありながら、アステカを滅ぼしました。その意味で私は裏切り者です。でも私は今、メヒコのために死にます。人の死は新たな生命となってよみがえります。それがアステカのおきてです。きっと…きっと、メヒコが新しくよみがえることを…私は信じています」
- Malyuta Skuratov マリュータ・スクラートフ(?-1573) ※ 日本語記事無し。代わりに「オプリーチニナ」を記す
ロシアの酷吏。雷帝イヴァンによる恐怖政治の象徴とも言える組織「オプリーチニナ」の長官として、雷帝の敵になりうるかもしれない人々を片っ端から皆殺しにした。
「彼らはその職務ゆえに、法律の拘束を受けなかった。彼らを侮辱すれば、大逆罪とみなされて死刑になるかもしれなかった。…彼らが罰金を科し、男たちを拷問にかけ、女たちを犯し、子供の眼をえぐり、家屋に侵入して略奪し、森や収穫物に火をかけても、だれひとり文句は言えないのだった」アンリ・トロワイヤ『イヴァン雷帝』
- Joseph Fouche ジョゼフ・フーシェ(1759-1820)
フランスの政治家。ナポレオンの私生活すら監視する秘密警察の長として暗躍し、次々と指導者の代わる革命期の動乱において常に暗然たる権力を保ち続けた。
「私はタレーランは信用したが、フーシェを信用したことは一度もない」ナポレオン
- Francois Vidocq フランソワ・ヴィドック(1775-1857)
フランスの脱獄王、スパイ、探偵。脱走兵として脱獄・逮捕を繰り返し、後にパリ警察の密偵となり、国家警察パリ地区犯罪捜査局を創設し初代局長となる。更に捜査局を辞した後は世界最初の私立探偵事務所を開設した。彼の著書『ヴィドック回想録』は探偵小説家に多大な影響を与えた。
「私はアラスで生まれた。しょっちゅう変装して顔かたちを変え、老けづくりにする好みもあって、私の年齢について、世間では、まちまちなことを言っているので、ここではっきりさせておくのは余計なことではあるまい」『ヴィドック回想録』
- John Wilkes Booth ジョン・ウィルクス・ブース(1838-1865)
アメリカの俳優で、南部連合の一員。絶対君主制をもたらすとしてリンカーンを暗殺した人物である。その後逃走の果てに射殺されている。
「専制者は常にかくのごとし」ヴァージニア州の標語
- Yevno Azef エヴノ・アゼフ(1869-1918)
ロシアの革命家。ロシア帝国のスパイであると同時にエスエルの幹部でもあった、ロシア革命史上最大の内通者。要人暗殺組織「社会革命党戦闘団」の指導者としてセルゲイ大公を暗殺、更に皇帝ニコライ2世の暗殺も計画している。
「…この人物をめぐって膨大な国際的文献が現われた。こういった文献は主としてセンセーショナルな調子のものであった。それも当然だ。事実そのものがすでにあまりにも異常にセンセーショナルであったし、事実そのものがすでにあまりにも想像力を刺激したのであるから」レフ・トロツキー『エヴノ・アゼーフ』
- Dragutin Dimitrijevic ドラグーティン・ディミトリエビッチ(1876-1917)
セルビアの軍人、テロリスト。秘密組織「黒手組」のリーダーとしてセルビア独立を企図し、セルビア国王並びにオーストリア皇太子暗殺を計画、完遂した。
「二段階の有能なる裁判で死刑を宣告され、また王家から赦免を得られなかった身だとしても、私は無実で死ぬことになる。そして私の死はセルビアにとりより高い次元での理由により必要なものだと確信する。私は本意ではないが愛国者としての仕事でいくつか失敗した。私は知らずしてセルビアの国益に反したかもしれない。だが行動に当たっては常に危険を犯さざるを得ない。だが意図して失敗したことは断じてないし、セルビアの国益に奉仕することを願ってきた」
- Roman Malinovsky ロマン・マリノフスキー(1876-1918)
ロシア帝国の革命家、政治家。秘密警察オフラーナの一員としてレーニンに接近し、彼の信頼を得てボリシェヴィキの情報を帝国に流し続けた。
「革命のないところでは生きられない」
- Felix Dzerzhinsky フェリックス・ジェルジンスキー(1877-1926)
ポーランドの革命家、後にソ連の政治家。レーニンの側近として革命直後の混乱期において誕生間もないチェーカーを指揮した「秘密警察の父」。チェーカーはGPU、KGBの前身。
「君達を捕らえるのが私達の仕事で、脱獄するのが君達の仕事さ」
- Vidkun Quisling ヴィドクン・クヴィスリング(1887-1945)
ノルウェーの政治家、軍人。ナチスと反ユダヤ主義に共鳴し、その北欧侵攻に乗じて政府を掌握。これを傀儡の座と引き換えに売り飛ばした。そして戦後に処刑されている*4。
「ノルウェーの市民は私に死刑宣告を下す事を望むだろうし、最も簡単な道は彼らに自分の身を委ねる事だとも理解している。だが歴史が判断を下すまでは待って欲しいのだ。十年も経てば私は第二のオーラフ聖王となっているだろう、信じたまえ」戦後、逮捕されてしばらく経った後の言葉
- T.E.Lawrence トーマス・エドワード・ロレンス(1888-1935)
イギリスの軍人、考古学者。通称「アラビアのロレンス」。オスマン帝国に支配されるアラブ人の反乱を支援し、帝国としてのトルコを解体する一助となった。
「私は準備だけが好きだったのだ。戦闘はどんなときでも逃がれたかったのだ」
- Michael Collins マイケル・コリンズ(1890-1922)
アイルランドの独立運動家。「国債」によって海外から資金をかき集め、また「十二使徒」と呼ばれる暗殺部隊を組織する*5等、主に工作活動と資金調達によって独立運動を支えた。
「七分くらい待ってもいいんじゃないですか。私たちアイルランド人は七百年待ちましたよ」
- Dai Li 戴笠(1897-1946)
中華民国の政治家、軍人。いわゆる軍統の指導者として、日本やその追従者、更に共産党等に対する徹底的な秘密工作活動を展開。その影響力は民国の隅々まで及んでいたという。
「多くの人々が彼を恨み、殺したがっていたのに、あっけなくも事故死するなんて、どうして信じられようか」彼の死に寄せられた米国の記事
- William Joyce ウィリアム・ジョイス(1906-1945)
イギリスのファシスト。その反ユダヤ思想からドイツに逃亡、帰化して連合国に対するプロパガンダ放送に従事する。愛称は「ホーホー卿」。
「死に臨んでも、人生と同じように、私はこの戦争を引き起こしたユダヤ人たちに立ち向かい、彼らが代表する闇の勢力に立ち向かう。私はイギリスの人々に、ソ連の帝国主義との衝突を警告する。イギリスが再び偉大さを取り戻さんことを、そして、この西洋最大の危機の時に、新たな軍旗が灰燼から立ち上がり、汝等征服されし、と文字が踊らんことを。私は、わが理想のために死ぬことを誇り、なぜ死なねばならないのか知らずに死んでいったイギリスの若者たちのために悲しむ」
- Otto Skorzeny オットー・スコルツェニー(1908-1975)
ナチスドイツの武装親衛隊大佐。アイヒ作戦やグライフ作戦等で知られる特殊工作の達人であり、「ヨーロッパで最も危険な男」と渾名された。
「完璧な英語を話すクラウツどもがあちらこちらに出没して電話線を切断し、道路標識を逆方向に向け我が軍の防衛拠点に押し込んだ」パットンからアイゼンハワーへの報告
- Nathuram Godse ナートゥラーム・ゴードゼー(1910-1949) ※ 日本語記事無し。代わりに「マハトマ・ガンジー」の項を記す
ヒンドゥー=マハーサバーの一員。「ヒンズー教徒はイスラム教徒を殺してはいけない」としたガンジーを暗殺した人物である。本人には許されたものの後の法廷において死刑が確定、執行されている。
「撃つ前には、ほんとうにガンジーの倖せを祈り、お辞儀した」ガンジー暗殺後、公法廷にて
- Kim Philby キム・フィルビー(1912-1988)
イギリス、ソ連の諜報員。英国秘密情報局(SIS)の幹部職員であると同時に、ソ連の国家保安委員会(KGB)にも貢献していた傑出した二重スパイ。ケンブリッジ5人組の1人。
「ソビエトのエージェントとなることに一秒の迷いもなく、大きな名誉だ」
- George Koval ジョルジュ・コワリ(1913-2006)
ソ連のGRU諜報部員。米国出身者で、プルトニウム及びポロニウムの精製法、安全保障のノウハウ等を含む無数の報告書をモスクワに送り、ソ連の原子力計画を大いに助けた*6。
「彼がもたらした情報がわが国の核兵器開発期間を劇的に短縮した」 ロシア大統領府
- name? 名前?(生没年)
寸評。
「逸話、名言、後世の評価、史書の記述等々」